「となりの魔法少女」2巻(七葉なば)
- 作者: 七葉なば
- 出版社/メーカー: 芳文社
- 発売日: 2014/10/27
- メディア: コミック
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1巻に引き続き今巻も、次のページ、次のコマを読むのが良い意味で怖かった。どんなに心温まる日常的な描写が続いていても、次のシーンではその余韻を吹き飛ばすどんでん返しが待っている。3人で海へ行く話の最終ページ直前とか特に。ある程度予想がつく展開ではあるが、だからこそページをめくるのが怖い。シリアスなんて混ぜなくていいからずっと日常回を描いてくれたらいいのにと思う気持ちが、「今がずっと続きますように」と願うあきの気持ちと奇跡的にリンクした。
0から1は生まれない。「鋼の錬金術師」では「等価交換」が重要なテーマになっているし、「魔法少女まどか☆マギカ」の魔法少女たちは願いと引き換えに人間としての命を失い、おぞましい魔女になる運命を背負わされる。あきが使う魔法の代償は「可能性」だった。人間なら誰でも持っている力で、願いを元に「可能性」を使い結果に至るという行為も誰もが行っている。成功したと見なされる世の有名人たちは、一般人よりも「可能性」の使い方が無意識的に上手かったのだろう。そして、その有名人たちよりも「可能性」を自由に操ることができるのが魔法少女なのだ、と。
人間の中には有り余る「可能性」が入っている。もし普通の人が子供の頃からの夢を叶えたとしても、その人の「可能性」が尽きることは一生ないだろう。ただし、あきは別だ。ウサの将来を左右する魔法を使って何日も眠り続けたように、魔法少女が消費する「可能性」の量は常人の比ではない。夏休みに起きた「とある事件」から圭を助けるため、空間跳躍(タイムリープ)を行い過去を変えようとしたあきは、自分の中の「可能性」を使い果たす。「可能性」を失った魔法少女の行き着く先とは…。正直、終盤の話の流れはよく分からない部分もあったが、それを上回る満足感があった。どこにでもいる普通の高校生が、大好きな友達と一緒にいたいと思う気持ちに、どんな整合性が必要というのだろうか?
哀しくも優しさに包まれた結末を迎えた当作品だが、最も印象に残ったのは、3人が夏祭りへ行く話。原理は金属の炎色反応に過ぎない花火を見て、理屈少女のウサも、他ならぬあき自身も、「魔法」のようだと言う。それまで場所取りについて揉めていたウサと圭も、花火を見てからは落ち着きを取り戻して和解する。多くの人を傷つける危険性を秘めた火薬を使い、多くの人を笑顔にする。なるほど「魔法」である。